Exploring J.R.R. Tolkien's The Hobbit を読む

今、ホビット一章読み終わるたびに、該当する章の解説として読んでいるのが Exploring J.R.R. Tolkien's The Hobbit という本。

The History of The Hobbit のRateliff 氏が発売前からご自身のブログで薦めていたので、早速注文していた。

すでにアンダーソン氏のThe Annotated Hobbit と Rateliff 氏の圧倒的な二巻本がある今、「ホビットの冒険」についてそれほど新しい知見が出てくるとは思えなかったが、これは上記のニ書とはまったくアプローチが異なるもので、まだ半分ちょっと読んだところだが、上記の本を読んでいてもなお一読する価値のある本だと思う。

The Annotated Hobbit と The History of The Hobbit(初期稿の分析は別として)は内容的には「ホビットの冒険」に関する薀蓄を傾けた本で、「ホビットの冒険」というテキストの外側にある情報(ソーススタディや中つ国神話体系の中での「ホビットの冒険」の関わり)を集めている傾向があるが、Exploring J.R.R. Tolkien's The Hobbit では、とりあえず「ホビットの冒険」本文だけから読み取れることにこだわり、そこから考えられることのみを扱うというストイックな読み方に徹している。(徒手空拳でテキストと向き合い、鋭い読みを見せる、ということでは、トールキン研究本の草分け的存在である Paul.H.Kocher の Master of Middle-earth を彷彿とさせるが、Kocher 氏の時代とは違い、本書の著者は HoMe に至るまでの背景的知識を持ちながらも、あえてそれを封印している点で、徒手空拳はあくまで選択されたアプローチ方法。)

そもそも「ホビットの冒険」について他人の解説が必要なのか、という疑問もあるかもしれませんが、それなりにわかってるつもりだった「ホビット」が実はちゃんと読めていなかったと思うことしばしば。本書を読んだ何人かが指摘しているとおり、とりわけ本文中に出てくる詩の一つ一つの解釈など実に面白い深読みで、作者が本当にそこまで考えていたかと思う場合もあるけれど、著者の提示する読み方で読んだほうが面白さが増すという点で、意味深い深読みだと思います。

Exploring J.R.R. Tolkien's

Exploring J.R.R. Tolkien's "The Hobbit"

The Hobbit 再読(2)cook better than I cook

I am a good cook myself, and cook better than I cook, if you see what I mean.

ビルボがトロルに食べられそうになったときに言う台詞。

この cook better than I cook の部分、次のように解釈していた。

自分が(ふだん)する料理よりも、ずっと上手に料理します。

なんせトロルに喰われかかってパニクっているので多少支離滅裂でもおかしくないだろうと。

この解釈で勝手に納得してしまったので、邦訳がどうなってるか確認もしなかった。

これが間違いであることに気づいたのは山本史郎「東大の教室で『赤毛のアン』を読む」という本で、「ホビット」を題材にした英文学のレクチャーにこの部分が引用されているのを読んだから。

cook には「料理する」という意味と、「料理される」という意味があると。

辞書を引くと、自動詞でそういう意味が載っている。

vi 1 <食物が>料理される、煮える、焼ける.例文 Potatoes cook slowly. ジャガイモは煮えがおそい。

つまりビルボは自分が料理されておいしく仕上がるよりも、料理をするほうが上手だと言いたかったわけだ。

語学力がないと一つのギャグを理解するまでにずいぶん時間がかかる。

この部分、瀬田訳と山本訳はどうなっているか。

瀬田訳「料理されるより、料理するほうがじょうずです」

山本訳「ちょっと妙な言い方ですが、わたしのやせ腕よりも、腕前のほうがおいしいですよ。」

瀬田訳はシンプルな直訳。(なぜか if you see what I mean を訳していない。)

山本訳は原文のダジャレ的おかしみを日本語で伝えようと苦心した感じは伝わってくるが、凝りすぎていて反射的に笑えない。
ここはシンプルな瀬田訳をとりたい。


ところで山本氏は本書でこんなことを書いている。

映画が大きな話題になったせいもあって、トールキンといえば『指輪物語』というふうにすぐに連想がはたらいてしまうかもしれないが、書かれたテクストとして圧倒的に面白いのは、『ホビット』のほうだ。「『指輪物語』は物語が冗長で、文章も単調なのであまり好きではないが、『ホビット』は面白い」と、知的な英語ネイティブの人が言うのを何度も聞いたことがある。

うーん「知的な英語ネイティブ」は「指輪」より「ホビット」が好きですか。それはいいとしても、山本先生のトールキンへの興味も「ホビット」に限られており、そのことが山本訳「ホビット」の問題(「指輪」「シルマリル」を含めたトールキン神話体系との齟齬)になってしまっているのではないか。

東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章

東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章

The Hobbit 再読

ホビットの冒険の映画公開も近づき、映画観る前に原作の記憶を新たにしておこうと思い、久方ぶりに読み始めた。
(本にメモしてあった記録によれば16年ぶりになる。)

原書で読むのはこれが二度目。以前読んだときに英文の意味がよくわからなかった難所(邦訳を確認すれば大抵は解決するが、なぜそういう訳になるのかわからない場合も多々ある)も、今回は躓かずに読めたりして、この間の英語力の多少の進歩が実感できてうれしかったりする。

しかし、あいかわらずよくわからないところもある。

一例をあげれば、トーリンが書いたビルボへの契約書の文。

all travelling expenses guaranteed in any event;
funeral expenses to be defrayed by us or our representatives,
if occasion arises and the matter is not otherwise arranged for.

この文の if occasion arises and the matter is not otherwise arranged for の部分に引っかかった。

邦訳を見てみると、

瀬田訳
「葬式の費用は、わたしたち一同あるいは代表の受けもつものとする。ただし、それをおこなうような事柄が、さけることのできない場合にかぎる。」

山本訳
「葬儀費用=われわれもしくはその代理人により負担のこと。事情に応じて臨機応変の処置とし、それ以外の場合はことさらに準備のなきこと。」

瀬田訳の「ただし、それをおこなうような事柄が、さけることのできない場合にかぎる。」と

山本訳の「事情に応じて臨機応変の処置とし、それ以外の場合はことさらに準備のなきこと。」

この二種類の訳、どちらを読んでも意味がよくわからない。そもそもこれは同じ内容を違う表現で語っているのかすら判断できなかった。

The Pocket Hobbit

The Pocket Hobbit

The Legend of Sigurd and Gudrún メモ

一、オーディンはたとえその試みがすべて潰え、目をかけた人間がすべて死んだとしても、彼の遠大な計画は「最後の戦い」のためにあり、オーディンの「希望」を奪うことは出来ない。ロキによる「悪」の影響も、オーディンの計画に結果として寄与することになる。

一、ブリュンヒルドは激しく燃える一瞬の炎、情熱の化身であり、対するグズルーンは情熱を内に秘め、目的達成のために自己抑制もできる女である。トールキンブリュンヒルドよりもグズルーンのほうが性格的に興味深いとしている。

一、シグルズの死もまたオーディンの計画のうちである。なぜならシグルズは「最後の戦い」において復活し、世界蛇を倒す役割を担っているからだ。(クウェンタ異稿にある「最後の戦い」におけるトゥーリンの役割との類似。)

ワーグナーの「指環」でもクライマックスにシグルズ=ジークフリートの死があるが、ワーグナーのオペラではジークフリートの悲劇の「意味」というのがよくわからなかった。ヴォータンは自分の遠大な計画の実行者としてジークフリートという英雄を用意するものの、結局、ジークフリートの死によって全ては水泡に帰す。これではエアレンディルになるべきヒーローがトゥーリンとして死んでしまったようなもので、話のポイントが見えなかった。(あるいはワーグナーのストーリーに「意味」があるとすれば、それは一種のニヒリズム的な境地なのかもしれない。)対するトールキン版は「最後の戦い」という敗者復活戦をもうけることで、ヒーローの悲劇もまた遠大な計画の一部としての意味が付加されている。
(このトールキンの「希望の原理」は、「シルマリルの物語」においても、暗いメインテーマのバックに幽かに流れる通奏低音のように流れているはずだが、77年度版シルマリルでは「最後の戦い」の記述と「アスラベスとフィンロドの対話」等がカットされたことで見えにくくなってはいる。)
トールキンがこのシグルズ神話の再話で試みたのは、北欧神話(=異教の英雄)をキリスト教的世界観の中で意味づけする、ということだったとすれば、ライフワークのシルマリル神話も同じ試みの一環といえなくもない。

The Legend of Sigurd and Gudrun

The Legend of Sigurd and Gudrun

The Legend of Sigurd and Gudrun

The Legend of Sigurd and Gudrun

偶然見つけたんですが

「超英語法」野口悠紀雄を読んでいたら、英語リスニングの注意点として、語尾にある子音(t、g、dなど)が発音されないことがある点を指摘した後、次のような記述があった。

なお、自分で発音する場合、このルールに従う必要はないだろう。実際、このルールに従わない英語のほうが美しい。映画「ロード・オブ・ザ・リング」(The Lord of the Rings)の冒頭にあるケイト・ブランシェットのナレイションは、動詞の過去分詞(‐ed)も含めて、すべての語尾の子音を発音しており、大変美しい。(「超英語法」野口悠紀雄p102)

野口氏はかなり年季の入った「指輪」ファンということで、PJ映画公開時には、自分の持っているイメージが壊れるという理由で、映画は観ないんだという話をどこかで読み、映画観た後に原作と映画のイメージの齟齬についていつまでも愚痴っているわれわれと比べて、そのストイックな漢らしさに感心したものだったが、上の文を読む限りでは、野口先生、映画観てますね?

「超」英語法

「超」英語法

「超」英語法 (講談社文庫)

「超」英語法 (講談社文庫)

C.S.ルイスの「心霊」体験

「悲しみをみつめて」に、亡くなったルイスの奥さんの「霊のようなもの」がルイスを訪れた体験が記録されている。

「それはまるで嘘のように非情なものだった。彼女の心が、いっときわたし自身の心と相対した、まさにそのような印象。
心であって、霊というとき考えられがちな「霊魂」ではなかった。確実に、「霊は溢れる」と呼ばれるものとは逆のもの。
愛する者の、われを忘れる再会には少しも似ないもの。
なにか実際上の取決めについて、彼女から電話があったか、電報がきたかにずっと似たもの。
格別の「用向き」があるのでない。ただ理知の目が注がれているだけ。よろこびとか悲しみの感じはまるでない。
日常的な意味では、愛すらもない。愛の喪失などでもない。
死者がこんなにも、そうだ、こんなにも事務的なものとは、どんな気分のときも想像したことがなかった。
しかしながらきわだった、晴ればれとした親近感があった。五感もしくは感情を、まったく経ていない親近感が。
(西村徹訳 新教出版社 P102〜103)

「悲しみをみつめて」を読んでいると、来世の存在を信じているクリスチャンがなぜこんなにも伴侶の死を嘆くのか、いささか奇異の念を抱くのだが、やもめになって落ち込んでいるルイスへの慰めは、神への信仰ではなく、「死んだ妻の気配」というオカルト的体験によっているというのが面白い。

ルイスは若いときに交霊術に関心を持っていて、同じくオカルトに嵌っていた親戚のおじさんかだれかが狂人になったのを見て恐ろしくなり、以後オカルトからは足を洗ったというが、実は「霊的なもの」に対してずっと敏感な体質だったのではないだろうか。といっても「見える人」という意味ではなく、「見えないもの」への気配にいつもアンテナを立てている、というようなタイプだったのかも。

(付記)
原書で読んでいると、本書末尾にあるイタリア語 Poi si torno all' eterna fontana が何の注もないので意味がわからなかったが、邦訳の注によれば、ダンテ『神曲・天国篇』からの引用で、「そして彼女は永遠の泉に身を向けた。」という意味だそうです。

悲しみをみつめて (C.S.ルイス宗教著作集)

悲しみをみつめて (C.S.ルイス宗教著作集)

A Grief Observed

A Grief Observed

Tolkien Studies Vol.8

Tolkien Studies 8を購入。

最近のTolkien Studies は新刊が出てもアマゾンなどでは扱っておらず(バックナンバーがマーケットプレイスで法外な値段がついてたりする)、版元のWVUPから買うのが早いことに気づいてからは、WVUPのホームページから直接注文することにしている。

定価60ドルで割引はないけれど、WVUPはなぜか送料をとらないので、邦貨にして4945円。円高の恩恵を感じる瞬間だが、にしても本一冊の値段として許容範囲かどうかは相変わらず微妙なライン。まあ年一回のトールキンお布施として、もうしばらくはフォローしていきたい。

肝心の中身のほうは、書評欄(毎号充実してます)はけっこう丹念に読んでいるものの、メインとなる論文の方は2〜3個も読めれば御の字という状態。