C.S.ルイスの「心霊」体験

「悲しみをみつめて」に、亡くなったルイスの奥さんの「霊のようなもの」がルイスを訪れた体験が記録されている。

「それはまるで嘘のように非情なものだった。彼女の心が、いっときわたし自身の心と相対した、まさにそのような印象。
心であって、霊というとき考えられがちな「霊魂」ではなかった。確実に、「霊は溢れる」と呼ばれるものとは逆のもの。
愛する者の、われを忘れる再会には少しも似ないもの。
なにか実際上の取決めについて、彼女から電話があったか、電報がきたかにずっと似たもの。
格別の「用向き」があるのでない。ただ理知の目が注がれているだけ。よろこびとか悲しみの感じはまるでない。
日常的な意味では、愛すらもない。愛の喪失などでもない。
死者がこんなにも、そうだ、こんなにも事務的なものとは、どんな気分のときも想像したことがなかった。
しかしながらきわだった、晴ればれとした親近感があった。五感もしくは感情を、まったく経ていない親近感が。
(西村徹訳 新教出版社 P102〜103)

「悲しみをみつめて」を読んでいると、来世の存在を信じているクリスチャンがなぜこんなにも伴侶の死を嘆くのか、いささか奇異の念を抱くのだが、やもめになって落ち込んでいるルイスへの慰めは、神への信仰ではなく、「死んだ妻の気配」というオカルト的体験によっているというのが面白い。

ルイスは若いときに交霊術に関心を持っていて、同じくオカルトに嵌っていた親戚のおじさんかだれかが狂人になったのを見て恐ろしくなり、以後オカルトからは足を洗ったというが、実は「霊的なもの」に対してずっと敏感な体質だったのではないだろうか。といっても「見える人」という意味ではなく、「見えないもの」への気配にいつもアンテナを立てている、というようなタイプだったのかも。

(付記)
原書で読んでいると、本書末尾にあるイタリア語 Poi si torno all' eterna fontana が何の注もないので意味がわからなかったが、邦訳の注によれば、ダンテ『神曲・天国篇』からの引用で、「そして彼女は永遠の泉に身を向けた。」という意味だそうです。

悲しみをみつめて (C.S.ルイス宗教著作集)

悲しみをみつめて (C.S.ルイス宗教著作集)

A Grief Observed

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