Arda Reconstructed : The Creation of the Published Silmarillion を読む

前のブログ(http://d.hatena.ne.jp/zushio/20080119/1200671418)で

「すでにHoMeという原資料がある今、77年シルマリルがどのような編集上の処理を経てあの形になったのか、つまりクリストファー(とガイ・ケイが)何を取捨選択し、あるいは書き足したのか、逐一調べようと思えば調べられるわけで、すでにそういった比較研究も出始めているようだ」

と書いたのだが、本書がまさにそれを行った研究書。前の記事を書いた時点で、本書の内容予告をどこかで読んでいたのかもしれない。

The Silmarillion - Thirty Years On が77年度版シルマリルの三十周年ということもあり、父親の遺志を継いでシルマリルの出版を果たしたクリストファーへのオマージュ的性格を持った論文集だったのに対し、本書はさらに踏み込んだ形で、77年シルマリルでクリストファーのした仕事を批判的に考察した内容になっている。

いや、批判的に考察する、なんて甘いもんじゃないか。ほとんど毎ページごとに「なぜクリストファーはこの箇所を削除したのか?なぜこちらを選択し、あちらを捨てたのか?クリストファーは父親の意図を無視しているではないか?」というノリで、ほとんど糾弾に近いような攻撃が連発、まだ半分くらい読んだところだが、これほど過激な内容だとは想像していなかった。

77年度版シルマリルの問題点として、著者の指摘する主要なものをあげると、

・クリストファーは作品の首尾一貫性を追求するあまり、あつかいにくい部分は全てカットする傾向があり、その結果、重要なディテールも一緒にカットされる傾向があること。
(その結果、味のあるキャラクター描写や具体的ディテールも失われ、物語が痩せてしまった云々。)

・女性キャラの軽視、または不当な削除により、女性キャラの存在感が希薄化する傾向があること。(ミーリエル、ネアダネル、ウンゴリアント、etc)

・その他、特に理由のわからないカット・省略。(場合によって「きっとこういう理由だろう」と推理できそうなケースもあるが、不可解な省略も意外なほど多い。)

私の場合、HoMeの読書は、比較的独立して読める作品、特に77年度版シルマリルに収録されなかった文章で美味しそうなところをつまみ食いする感じでしか読んでおらず、クウェンタ異稿の読み比べはやったことがないので、著者によるクリストファー編集の「恣意性」の指摘はけっこうショックでもあった。

もちろん、恣意性といっても、膨大な数にのぼる固有名詞の一つ一つの発生時点からその変遷を辿り、ちょっとしたスペルの変化にも注意を払うような、ほとんど超人的に細心なクリストファーにして、「恣意性=いいかげん」というようなものではありえない。一見、理由がわからなくても、個々のケースにおいて、クリストファー独自の判断基準があったはずなのだが(*)、著者が疑問を呈している多くのケースで、じっさい、なぜそう処理されたのか、理解に苦しむものも意外なほど多いのに驚かされる。

(* ディテールの省略に関しては、クウェンタの文体は元来、小説的文体ではなく「要約的」文体で書かれているということもあり、後年の改訂で書き足されたディテールが、クウェンタのスタイルである、出来事と距離をとった感じにそぐわない、と判断されたケースもありそうだ。)

トールキンの意思を尊重する、という点に関しては、トールキンが生存中、最後に行った改訂イコール決定稿というふうに、機械的に処理できないという難しさもある。代表的な例では、トールキンは後年、二つの木の最後の果実と花から太陽と月が創造されたというコンセプトを捨て去る方向にあったが、こうした場合、神話世界全体の構造の見直しと、神話の魅力的な部分の多くを犠牲にする必要があり、これに関しては本書の著者も、父親の意思をあえて無視することで物語の魅力を救ったとしてクリストファーの英断に感謝している。

「The story of Finwe and Miriel」「Of the Laws and Customs among the Eldar」「Athrabeth Finrod ah Andreth」の三作はトールキン全作品のうち、トールキンの思想がもっとも色濃く現れたものであり、77年度版シルマリルに(追補篇という形で)収録されるべきであった(じっさい、それはトールキンの意思でもあった)というのが著者のとる立場だが、これには異論があるかもしれない。上記三作は極度に思弁的であることに加えて、トールキンのクリスチャン的側面が色濃く出ている点で、他の作品とは異質なものとなっており、世界の創造から指輪戦争以前までの滔々たる歴史の流れを語ることを第一とし、神話の中に神学が入り込むことを避けたクリストファーの判断を擁護する立場もありうると思う。(この本の著者であるKane氏がクリスチャンかどうかは知らないが、これらの作品に関する判断は、その人がクリスチャンかどうかということによっても違ってくるだろう。)

巨匠の映画監督によって膨大な撮影素材が残された。その素材は数十年にわたる撮影期間を経ることによって、晩年に撮影されたいくつかのOKカットはずっと昔に撮られた別のカットとうまく繋がらない。あるいは同じシーンを撮り直した膨大なリテーク・カットが存在し、最終的なリテーク・カットは、監督の生存中の最後に撮られたという意味で最終であるのだが、必ずしもそれがOKカットであることを意味しない。77年度版「シルマリルの物語」を作ったクリストファーは、監督不在のまま、監督のビジョンを一番理解している者として編集をまかされた助監督に近いものがありそうだが、そのときのクリストファーの任務は、上映時間も手ごろな長さで、一般的な観客にも理解しやすい劇場公開版を編集することだった。しかしこの劇場版はわかりやすさ、娯楽性を優先したがゆえに、時として監督のビジョンのうち、もっとも深遠な部分を犠牲にし、一つの物語から派生した過剰な細部を切り捨てなければならなかった。
監督がすでにこの世にいない以上、もはやオーソライズされたディレクターズカット版を期待することはできないが、本書を叩き台とすることで、在りえたかもしれないディレクターズカットを夢想することも全く不可能というわけではなさそうだ。そしてもしそれが実現したとしても、劇場版のほうが好きだという人はきっといるだろうし、そのときにこそクリストファーの編集の技があらためて評価されることになるのかもしれない。

Arda Reconstructed: The Creation of the Published Silmarillion

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