偉大さとは何か
奥泉光が大岡昇平の『レイテ戦記』について書いている文章を読んで唸ってしまった。
『レイテ戦記』について書かれた文章でありながら、あたかも『指輪物語』について書かれた文章のように読めるのだ。
「『レイテ戦記』は偉大な作品である。
その偉大さは、たとえばホメーロスの叙事詩に連なるような偉大さであって、日本近代文学の伝統に傑出し、幾つかの優れた例外とともに孤立している。
ここで偉大さとは何か。とりわけ人間の偉大さとは何であるか。それはたとえば次のように定義できるだろう。与えられた有限な条件のなかで、自己の生命力を最大限にまで拡張しようとする人間の姿である、と。アキレウスにしてもヘクトールにしても、神々に比するなら、体力知力精神力、どれをとっても小さく限定されているのは当然だ。彼らはその都度直面する状況において、明瞭な見通しを持ちえず、すでに神々によって決定されてしまった自己の運命を知らない。だが、それでもなお己の生命力を燃焼させ、ぎりぎりまで押し広げようとする、その行動のさまが、すなわち偉大なのである。
同じことが『レイテ戦記』の人物たちについてもいいうる。むろん、そこには、『イーリアス』の世界と同様、卑怯や愚劣や残忍もある。けれども、これら人間の負性もまた退け難い生の条件なのであり、そうした条件の拘束下にあって発現されればこそ、勇気や誠実、あるいは愛情は、偉大さの光輝を帯びるのだ。
戦争は全体として愚挙であり、だから、そこでいかに「善いもの」が示されようとまるで無意味である、と考えるのは、自分ひとりは人間を拘束する条件から自由でありうると思い込む呑気な主観だけである。歴史は総体として愚挙の堆積であるとの視点だって当然成り立つので、なによりも行為の結果が、つまり、未来が、絶えず闇の向こう側に隠された歴史の裡に人間は否応なく置かれているのであり、しかも、決してひとりではなく、複数の人間とともに、大勢の他人たちと一緒に世界を築いていかなければならない、その事実こそが、人間の生に課せられた最大の条件なのである。
観念の世界でなら人間はいくらでも自由になりうる。鎖に繋がれた奴隷でも内面の自由は確保できる。その姿は高貴であるかもしれないが、しかし決して偉大ではない。偉大さとはなにより、拘束のなかでぎりぎりの力を発動し、ときに鎖を断ち切らんばかりに生を拡張しようとする人間の行為に示される。(後略)」(『虚構まみれ』青土社)
『指輪』を読んで、日本の作家からはかつて味わったことのない、大いなるものに対する畏怖の念、大げさにいえば「崇高という観念」を初めて知った気がしたものだが、それは作者の持つ宗教性から来るものと解釈していたけれど、奥泉光がいう意味での偉大さでもあったのだな。
歴史のある局面においてなされた一つの選択、一つの行動が偉大さを帯びる瞬間というものがあり、それはほとんど神話的な相貌を帯びるのかもしれない。それは『指輪』の登場人物にとって、彼らの「今・ここ」という現実の中で、『シルマリルの物語』の神話を生き直すことでもあった。
戦争という題材はナショナリズムや安易なヒロイズムと結びつきやすいことはたしかだが(これを「俗情との結託」と呼んだ評論家もいた)、戦争という極限状況は平和時には発現されることはない人間の可能性(状況によって偉大にもなれば、トコトン脆弱にもなる)を垣間見させる一つのケース・スタディでもあるのだろう。
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