希望という名のあなた

前回の記事に関しては、一つの仮説といってもその内容の性質上、じっさいにアラゴルンが霊的な存在としてケリン・アムロスの丘を訪れたかどうかということはそもそも問題にできることでもないので、ここはあくまでもトールキンの死生観が(言外に)表現されているかもしれないということになるのだろう。

この記事を紹介させてもらったRichard C.West 氏は、その本論の中で、アラゴルン臨終のさいにアルウェンが叫ぶアラゴルンの幼名エステルの、宗教的含意を深読みしていてこれもなかなか面白い。
少しWest 氏の議論を追ってみる。

アラゴルン臨終の床の場面。
「しかしヌメノール人の王よ、あなたに申し上げますが、わたくしは今の今まで、あなたの一族とその没落の物語を理解していませんでした。罪深い愚か者とかれらのことを軽蔑しておりました。けれどようやく今になってわたくしはかれらに憐れみを覚えます。なぜと申せば、もしこれがエルダールたちのいうように本当に唯一の神が人間に与え給うた贈り物であるとすれば、受けるのは辛いことですから。」
「『そう思えよう、』とかれはいった。『しかし、この最後の試練に敗れぬようにしよう。われらは昔暗闇と指輪を拒んだのではないか。悲しみのうちにわれらは行かねばならぬとしても、絶望して行くのではない。ご覧!われらはいつまでもこの世に縛られているのではない。そしてこの世を越えたところには思い出以上のものがあるのだ。では御機嫌よう!』(「追補編」文庫P86)

このアラゴルンの台詞の最後の部分、原文では

"In sorrow we must go, but not in despair.
 Behold! we are not bound forever to the circles of the world,
 and beyond them is more than memory."

になっている。
West 氏いわく、「アラゴルンはなぜこうも自信たっぷりにthe circles of the world を越えた先に何があるのか語れるのだろう。それは私たちにはわからないが、これは彼のいわゆる先見の能力が彼になにか啓示をもたらしたのかもしれない。」

West 氏がBlackwelder 氏編纂のTolkien Thesaurusで LotR中の behold という単語が使われている文を調べてみたところ、トールキンはふつうbehold ということばを「何かリアルに見えるものがあるとき」にしか使っていないそうで、ここでのアラゴルン臨死体験者が彼岸的世界をリアルに体験するように、この世の越えた先のビジョンをじっさいに垣間見たのではないかと解釈している。behold という単語のトールキンの使用パターンを調べることでこういう推理をするところがニクイですね。

しかし、「アルウェンはそのビジョンを共有できず、彼女の苦悩は癒されることはない。」
「『エステル、エステル!』アルウェンは叫んだ。エステルはアラゴルンの幼名であり、「希望」を意味している。彼の誕生は世界をより良い世界にするための希望を与えるものであり、アルウェンはじっさいかれがそれを達成するための手助けをしてきたのだ・・・」

「しかしトールキンはまた彼の本が「根本的には宗教的で、カトリック的な作品だ」とも述べている。私は今ここで問題にしているシーンを彼が二重の意味で捉えるように示唆していると考える。死というものはたしかに「受けるのは辛いように思える」し、「悲しみのうちにわれらは行かねばならぬ」が、しかし「絶望して行くのではない」。

C・Sルイスによると、「希望は神学的徳の一つである。このことは、永遠の世界をたえず待ち望むことは(現代のある人びとが考えるように)一種の現実逃避や希望的観測ではなく、クリスチャンとして当然しなければならない事柄の一つである、ということを意味する。」(「キリスト教の精髄」柳生直行訳)

「中世において、ダンテの偉大な詩は悲劇ではなくコメディとなっている。なぜならそれはいったんは地獄界に降り、つぎに煉獄界を通り、最後は楽園に到達するハッピーエンドの物語であるから。(中略)中つ国においてはそのようなキリスト教的希望というものは存在しない。指輪物語は総じていえば決して幸福な印象をもたらす本とは言いがたいけれども、とりわけアルウェンの孤独な死はもっとも悲劇的なものだと私は思う。(ここで注がつき、前回のブログに書いた仮説が付記されています。)

「事物を永遠に色褪せないようにし、思い出としてだけとどめておくとは、時というものに防腐処置をほどこすようなものであり、トールキンはそれがエルフたちの大きな過ちであると書く。

アラゴルンが死に瀕して愛妻の手にキスをするときに我々が繰り返し聞く「エステル」ということばは、それはキリスト教以前の時代に、エルフ語で口に出されるものの,、それはキリスト教の美徳の一つである「希望」であり、それを口にしている当の本人はその言葉が示唆する意味を理解していない。

「アルウェンは希望を失った。彼女が失ったのは夫ではあるが、彼女にとってその夫の愛称はまさしく「希望」だったのだから。しかし、彼女の絶望の叫びそれ自体がキリスト教的美徳でもあることによって、たとえそれを口にする人物からは隠されていても、聖なる希望は依然としてあるということを、作者はかすかなヒントによって表していたのかもしれない。
アラゴルンとアルウェンの物語』は悲劇的であり、「この世界にはこのような苦しみを慰めるべきものは何もない」。しかし、この世を越えたところには慰めがあるというのがトールキンのクリスチャンとしての希望であったといえよう」

私の訳し方が下手なせいもあり、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、West 氏は臨終のアラゴルンに向って彼の幼名であるエステル=希望という意味の名をアルウェンに叫ばせたことはトールキンに宗教的な意図があったのではないかというふうに読んでおり、トールキンは本当にそこまで考えていたのかと半信半疑な気分になるものの、希望を見出せない者の口から発せられた希望という言葉のアイロニーという読みは面白いと思いました。

トールキンの未発表書簡によれば、LotRの外国語翻訳者が追補編を丸々カットしようとしたとき、トールキンは少なくとも「アラゴルンとアルウェンの物語」だけは収録することを主張したそうである。)