Deep Magic と Deeper Magic

Johnnycakeさん、いつもコメントありがとうございます。コメントが長くなってしまいコメント欄に入り切らないのでこちらへ書かせてもらいます。

(以下、ネタバレ有り。「ライオンと魔女」映画未見&原作未読のかたは注意してください)

ピーターは長男としての責任感からなんでしょうが、あんなに頭ごなしに怒鳴らなくてもいいじゃんかと次男坊の自分はエドマンドに同情しました。(まあ本人も後で反省してましたが)

自己犠牲の精神に関してなんですが、たとえばガンダルフが旅の仲間を救うために自ら命を投げ出してバルログと戦ったり、フロドが指輪所持者を自らの意思で請け負うっていうのはとくにキリスト教の教義を持ち出さなくても理解可能な自己犠牲だと思うんですが、アスランの場合は戦わずに自らを生贄にし、それでいて現実の状況はさっぱり改善されていない(魔女はアスランが身代わりに死んだからといって征服を止めるつもりはないですし)という、ちょっと特殊な自己犠牲のかたちだと思うんです。

Deep Magic とは、宇宙の法則としての正義というものがまず前提としてあって、だれかがその正義を損なった場合、他の誰かがその正義の修復のために罪を肩代わりすることで正義の損失がチャラにできるという、それ自体、かなり特殊な道徳観念ではないでしょうか。そしてDeeper Magic になると、そこで犠牲になった死は振り出しに戻るという、さらに特殊な魔法が働いている。たぶんこの辺の考え方がキリスト教の奥義であるとも思うのですが、そういう考え方に慣れていない人間にとってわりと異様な考えかなと思うのですがどうでしょう。

しかし、こういった理屈は物語を読んでるときには思い浮かばなかったですし、アスランの自己犠牲と復活という物語を感情的に体験することこそルイスの眼目だと思うので、映画はその辺はじゅうぶん感動的に描いてくれてたと思います。

中間世界、私もよくわからないです(笑。特にアスランの国と中間世界の関係が未だによくわかりません。あの設定はファンタジーよりもSFのパラレルワールドに近いような印象を持ちました。(チャーンの都は映画化されたらどんな映像になるのか愉しみではあります。)