悪の問題⑴

「宗教の哲学」(J・ヒック)という宗教学の本を読んでいて、神学の領域で「悪の問題」がどのように解釈されてきたかがコンパクトにまとまっており、キリスト教の伝統的な神学とトールキンの神話世界の中の悪の問題の解釈について、いろいろなことを考えさせられた。

一口に「悪」と言っても、キリスト教の罪の観念がいまいちピンとこない極東の人間にとっては、そもそもまず「悪=evil」とは何かということから始めなければならないのだろうが、ここではヒックの本を参照しながら、ひとまずキリスト教の伝統的な「悪の問題」に沿って考えを進めてみたい。

ヒックによれば、まず悪とは「神の意思に反するもの」であり、端的には肉体的な痛み、精神的な苦しみ、道徳的な邪悪さのことである。「(道徳的な邪悪さは)前の二つのものを生み出す原因の一つである。というのも、非常に多くの人間の苦しみが人間の非人道性から生じているからである。この苦痛の中には貧困、抑圧、迫害、戦争、そして歴史のなかに生じてきたあらゆる不正、屈辱、不法といった主要な苦しみの種が含まれている。」
こういった人間の邪悪さが原因の苦しみ以外にも、病気や地震、洪水などの天災といった人間の意志とは直接関係のない悪もある。
このような世界の悲惨さを目の当たりにしても、無神論者や唯物論者であれば、世界というものはそういう「不都合」なことが多いというだけのことで、ことさらにその不都合さが生じる根本的な原因など求めることはないだろうが、有神論の立場に立つとそうも言ってはいられなくなる。

「有神論に対する挑戦として、悪の問題は伝統的に一つのディレンマの形で出されてきた。神が完全に愛ならば、神は悪を無くしたいと望まれるはずである。そして神が全能であるならば、神は悪を無くすことができるはずである。ところが悪が存在する。それゆえ、神は全能であると同時に、完全に愛であることはできない。」

このような挑戦に対して、伝統的な神学はどのように答えてきたか、そして熱心なカトリック信者であったトールキンがその神話世界を創造するときに悪の問題をどう考えたか、そしてそれはユダヤキリスト教の神学とどのような点で似ていてまた違うのか、ヒックの本を手がかりにこれから折に触れて考えてみたいと思う。


宗教の哲学

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