カーペンターよ、お前もか

海外のトールキンに関する研究本を読んでいると、日本ではほとんど問題にされないようなこと、たとえばトールキンの作品は連綿と繋がる栄誉ある英文学の歴史の一角に加えることができるような文学作品なのか、いや、そもそも普通の意味での文学作品と言えるのかどうか、といったことが話題にされ、正統的な?文学派の攻撃に対して、トールキン研究家が論駁の批評を展開するといったものをときたま見かけることがある。著名なトールキン学者のシッピィ教授も J.R.R.Tolkien Author of the Century でトールキンジョイスオーウェルと並ぶ「20世紀の作家」として、トールキンを20世紀の時代精神と切り結んだアクチュアルな作家として位置づけようと試みていました。

私個人としてはトールキンの作品が「文学」であろうとなかろうと、今更文壇的評価などはわりとどうでもいい気がしますが、前にJoseph Pearce 著 Tolkien Man & Myth を読んでいて、引用されていたトールキンの伝記作者でもあるハンフリー・カーペンターの発言にはちょっと考えさせられるものがありました。以下引用してみます。

「…トールキン自身の伝記作者でさえ(ブルータスよ、お前もか?)たわいもなく次のように発言している。”トールキンは実際のところ、文学にも芸術一般にも属していない。彼はむしろ、庭に作った小屋の中で鉄道模型を作って遊んでいるような人種により近いものがある”」(Pearce, p133)

う〜ん…そういえばカーペンターのトールキン伝、トールキンが中つ国の事柄をシリアスに考えている様子をどこかおちょくっているような、トールキンの熱狂的ファンとは一線を画した、一種突き放したアイロニーを感じた覚えがあったっけ。

トールキン自身が人工言語を作る自分の趣味を一種自嘲的なニュアンスを込めて Secret Vice=密かなる悪徳と呼び、たしかにLotR追補編の年代記系図、カレンダー、エルフ語の音価表などのマニアックぶりを眺めていると、自家製のミニチュアの宇宙にどっぷり漬かって遊んでいるような、微かな悪徳のにおいがしないでもないかなぁ。。トールキンを無理して「文学」の額縁に収める必要はないと思うが、しかし文学や芸術よりも庭の小屋に作った鉄道模型に近いとはね…公認の伝記を書き、書簡集の編集をしているカーペンターにして、お前もか、と言いたくなる気持ちにもなるかなぁ。。