C.S.ルイスについて

the suspension of disbelief という言葉がある。〔不信の停止、信じがたい事を(進んで)受け入れること。リーダーズ英和辞典〕

物語、とりわけファンタジーを読むとき、読者は意識的無意識的にこの「不信の停止」をして、現実には存在しない生き物や世界の存在を一時的に信じる精神の姿勢をとって、ファンタジーの世界に参入していく。作者が技巧に長けていればいるほど、とうてい信じ難い架空の世界であっても読者の目にリアルなものとして感じられ、読んでいるあいだはこの「不信の停止」が解かれることがなく、本を閉じたさい、はじめて我に返るといったことさえ起こりうる。

トールキンの中つ国に限らず、映画や漫画なども含めて、読んでいる間、鑑賞している間はその世界に没入し、その世界を「生きた」気持ちにさせる作品はこの「不信の停止」に成功したということができるだろう。それは一種の魔法のようでもあり、トールキン的に言えばエルフの技のようなものだ。

ところでこの「不信の停止」というものは物語が終わりを迎え、本を閉じたとき、映画のエンドマークが出たときに、通常はそこで終わる類のものだろう。中つ国の世界に魅せられ、物語が終わった後も追補編に書かれた膨大な情報の森の中に入っていき、その後HoMEのケモノ道に分け入ったりして、一生中つ国に入り浸り続けたとしても、読者の確固とした日常は脅かされることはない。トールキンの世界は散文的な日常に倦んだときに、ときおりその雄渾な神話世界を訪れ、中つ国の清涼な空気に触れて、元気をもらう、癒される、といった関わり方が可能であるような世界であるように思う。

ルイスのファンタジーはこういった通常のフィクションとの関わり方、読者の足場が確保されて想像の世界に遊ぶというような関わり方に止まることができないという点で通常のファンタジーとは違う一種の危うさを孕んでいる。ルイスのファンタジートールキンなどと比べてキリスト教的寓意があからさまであり、クリスチャンではない読者にとって、物語中でのキリスト教への目配せが「不信の一時的棚上げ」をやめさせ、場合によっては「なんだお説教かよ」と思わせる危険さえ伴っている(「不信の停止」が大人よりも得意な子どもの場合はその限りではないが)。
しかし一方で彼のキリスト教的世界観は彼のファンタジー作品の中にキリスト教の暗喩を密輸することに止まらず―ナルニア国物語の読者が「最後の戦い」において衝撃を持って体験するように―彼はファンタジー世界と現実の世界のレベルを一挙に突き崩し、「リアル」の意味を完全に反転させてしまう。ルイスと信仰をともにしない非クリスチャンの読者にとって、「最後の戦い」の結末は一種のちゃぶ台返しに過ぎないだろうか。そうかもしれない。しかしナルニア国物語キリスト教的世界観の単なる絵解きや作者の思想が語られるための「容れもの」と考えず、一つの確固たる独立した宇宙として「不信の停止」を通じて参入している読者(「不信の停止」とは本来的にそういう参加の仕方だろう)は、「最後の戦い」において、たとえ一瞬でも、自分の所属するこの世界、自分の立っているこの世界の足場がグラリと傾く瞬間を味わうのではないか。

ルイスはトールキンの読者が中つ国に一時的に安住し、それと同時にこの現実世界にも安住するという二元論を許さない。彼の作品を「不信の停止」で読み進めた読者は読了後、戻ってきた現実がもはや元の現実ではないという危険を常にともなっている。
それは一種の世界観の変革であり、ルイスの信仰をともにしない者にとっては「洗脳」と云ってもあながち間違いともいえないだろう。
それゆえルイスを読むことはある意味恐ろしい。しかしこの「現実」をも一挙に相対化してしまうルイスの過激さ(そしてそれは彼のキリスト教と切り離せない)は、この「現実」というものがじっさいのところ「何であるのか」について―星の組成を知っていることで星というものがなんであるのかを知ってるつもりのユースチスをたしなめたラマンドゥのように―あらためて考えるきっかけを与えてくれるように思われる。これからもそんなルイスのファンタジーの魅力について考えていきたい。