旅への憧れ(その三) 海に行こう、海に!

こういったロマン主義的憧れを喚起するものとして、トールキン世界では海への憧れを忘れるわけにはいかない。

「緑の葉なるレゴラスよ、そなたは長く木の下に喜びもて暮らしたりき。海に心せよ!
岸辺にて鴎の啼くをきかば、そなたの心はその時より森に休らうことなかるべし」(二つの塔上・旧訳文庫p184)

「ご覧!」かれは叫びました。「鴎だ!ずいぶん陸の奥まで飛んできたな。かれらはわたしの驚きで、わたしの心を騒がす種なのだ…」
「海!ああ!わたしはまだこの目で海を見たことがない。しかしわが種族の者ならばだれの心にも奥底深く海への憧れがひそんでいる。これをかきたてることは危険なのだ。あなあわれ、鴎鳥よ!ブナの木の下でも楡の木の下でも、わたしは二度と心の平安を味わうことはないだろう。」(王の帰還上・旧訳文庫p257)

このエルフ族の固有とされる海への憧れ、ひいては大海の先にある「まだ見ぬ故郷」への憧れの念は、海という仲介物を契機として喚起される(レゴラスの場合はさらにもう一段、海を連想させる鴎の啼き声というもう一つの仲介を経て)という構造上、一種のロマン主義的憧れを目覚めさせるもので、この種のロマンチシズムは実際にアマンの具体的描写を読んでしまうと薄らいでしまうということもあり、この件に関しては「シルマリルの物語」を読むことが幸福なことかどうか、未だ無知な段階ゆえの幸福な読書体験ということもあるように思われるが、しかしそこに留まり続けることもできないのでとりあえず先へ進みたい。

シルマリルの物語」で明らかにされるように、この海への憧れ、潮騒の音が喚起するアマンへの呼び声は、海や川など全アルダ中の水を支配するウルモの奏でる音楽だとされている。

「時々かれ(ウルモ)は姿を見られないで中つ国の岸辺に来ることがある。或いは内陸の奥深く入り込んだ入り江を遡って、大きな角笛を吹き鳴らすことがある。この角笛はウルムーリと呼ばれ、白い貝で作られている。この音楽を耳にした者は以後絶えず心にその音楽を聞き、海への憧れはもう二度とかれらを離れることはないのである。」(評論社・田中明子訳p32)

ウルモはすべてのアイヌアの中でイルーヴァタアルに最も深く音楽を教えこまれたという。ならばウルモの奏でる音楽、そこから喚起される感情とは、イルーヴァタアルの御心と何らかの関係があると想像してもいいかもしれない。
さらに「アイヌアの音楽」の章には次のような記述も見られる。

「水中には地球上のどの物質にもまして、アイヌアの音楽のこだまが今なお生きていると、エルダアルは言っている。そしてイルーヴァタアルの子らの多くは、今も飽きることなく海の声に聞き入っているのであるが、それが何であるのかは知らないのである。」(前掲p20)

ここで言われているアイヌアの音楽とはイルーヴァタアルによって提示された三つの主題のうち、アイヌアが合唱に加わらなかった第三テーマだと思われる。第一、第二のテーマにはメルコールの不協和音が入り、それは世界と歴史にある種のダイナミズミムを齎す結果になったものの、暴力的で騒がしい、安息や平安のない、動乱の世界=歴史そのものであるが、第三テーマは次のように描写されている。

「これは前の二つの主題とは似ていなかった。初めは妙にやさしく、微妙な旋律を奏でながら漣のように広がる静かな音の連なりとしか聞こえなかったのであるが、決してかき消されることなく、次第に力と深みを帯びていったからである。…(この主題は)深くゆったりとして美しく、反面緩やかで、測りがたい悲しみが混じり合っていた。この音楽の美しさ自体が何よりこの悲しみから生じていたのである。…」(前掲p16)

この第三の主題からイルーヴァタアルの子ら、エルフと人間の出現も幻視されるのだが、この主題にはエルフの消滅と人間の支配の歴史段階までが予見され、その先の展開はアイヌアにさえ見られることはなかったという。

「騒がしく独りよがりで、果てしない繰返しから成り、ハーモニーはほとんどなく、あるのは、数多くのトランペットが、僅かな音符を吹き鳴らす時のような騒々しいユニゾンのみであった」という第一、第二テーマは、世界の動乱の歴史そのものを予見しているように思え、この騒々しい歴史のメインテーマに隠されるように、しかし決してかき消されることなく続いている通奏低音である第三の主題は、イルーヴァタアルの子らの心に、この果てしのない闘争劇である歴史の終わり、イルーヴァタアルの御心の中にのみある未だ隠された歴史の終局の彼方=永遠への想いを喚起するゆえ、美しくも哀しいのかもしれない。