旅への憧れ(その二) フロドとアシェンバハ

しかしフロドの中に厭世主義や一種のペシミズムを見ようとするのは少々行き過ぎかもしれない。改めて「旅の仲間」上巻を拾い読みしてみたが、そういったことをうかがわせる記述は特に見当たらないようだ。しかし、現在の安楽な生活を捨てて、旅に出てみたい、丘の向こう、山の向こうを見たいというこの情熱の正体は一体何だろうか。

「…何年かの間は、かれもまったく幸福で、そうそう先の事を思うこともありませんでした。しかし自分でも半ば気づかぬうちに、ビルボと一緒に行かなかったことへの悔いがだんだんかれの心の中にはぐくまれてきていたのです。かれは時折り、とりわけ秋になると、荒地の国々のことに思いふけり、見たこともない山々のふしぎな幻を夢に見ました。かれは自分にこういい聞かせるようになりました。『きっと、わたしは、そのうち大河を渡ることになる。』それに対してかれの心の半分はいつも答えました。『まだだ、まだだ。』と。
 こうして年月はたち、四十代もいつか過ぎゆき、五十代の誕生日が近づいてきました。どういうわけでか、フロドにとっては重大なことのある(あるいは凶々しい)年のように感じられました。ともかくそれは、ある日、突然ビルボに冒険がふりかかってきた年でした。フロドは気もそぞろになり始めました。見慣れた古い小道はあまりにも通い慣れたもののように思われました。かれは地図をいくつも広げてみては、この地図の外にはいったい何があるのだろうと思うのでした。ホビット庄で作られる地図では、庄境の外はほとんど空白になっているにすぎません。かれはますます遠くの野山にただ一人でさ迷い出ることが多くなりました。メリーやほかの友人たちは、そんなかれをただ心配そうに見守るばかりでした。また、このところ、ホビット庄でよく姿を見かけるようになった見慣れぬ旅人たちと道連れになって、話をしたりしているかれの姿もしばしば見受けられました。」(「旅の仲間上」旧訳文庫p76〜77)

ところで後年になってトマス・マンの「ヴェニスに死す」を読んだとき、このフロドの情熱を思い起こさせる記述に出会った。「ヴェニスに死す」はヴィスコンティの映画にもなっているが、映画では主人公のアシェンバハがヴェニスに到着するところから始まる。しかし原作では彼がそもそもなぜヴェニスを訪れる気になったか、あるちょっとした出来事の記述があり、この些細な出来事が彼のヴェニス行き(ひいては美の象徴であるタッジオとの邂逅、そしてその美に殉ずるがごとくの彼の死)を運命づけており、伏線として重要な役割を持っている。そしてそのきっかけとなった出来事とは、彼がある日の午後、一人でかなり遠くまで散歩に出たとき、一人の異邦人に出会ったという、ただそれだけのことなのだが、その小さな事件が池に投ぜられた小石の波紋のように、彼の全存在を揺さぶっていくのである。その部分のくだりを少し引用してみるとー

「(アシェンバハは)もうこの男のことは気にかけまいと即座に決心して垣根に沿って歩き出した。事実その男のことはすぐに忘れてしまった。しかし見知らぬその男の風采の中にある旅人めいたものがアシェンバハの空想力に働きかけたのか、ないしは何か肉体的あるいは心理的な影響がそこにあったのか、アシェンバハは自分の内部が奇妙に拡大されて行くのに気づいてわれながら驚いた。飛び立ちたいような一種の不安、若々しく遠い国をはげしく憧れる気持、そういう感情があまりにも生きいきと、あまりにも新鮮によみがえってきた。とはいえまたあまりにもそういう感情を忘れはてていたので、彼は手に腰をあて視線を地面に伏せた格好で動けなくなってしまった。そしてこの感情の正体と目ざすところとを確かめようとした。
 それは旅への誘いだった。それ以外のものではなかった。しかしそれが発作的に現われて、情熱に、いや錯覚にまで高められたのだ。…彼の眼前には、靄の立ち込めた空の下に、湿って、草木の繁茂した、異様な熱帯の沼泥地が開けてきた。小島と泥沼と、泥を流して行く水流とに織りなされた原始風景が開けてきた…アジェンバハは自分の心臓が驚愕と謎めいた渇望のためにはげしく鼓動するのを感じた。やがて幻想は薄らいだ。そうして彼は頭をひと振りふって、墓石工場の垣根に沿ってふたたび歩きだした。」(高橋義孝訳・新潮文庫p103〜104)

フロドとアシェンバハに共通するこの旅への憧れは、一種のエキゾチズムへの憧れ、平凡な日常、見慣れた風景からの脱出願望と受け取ることもできるけれども、彼らの浮き足立った感じ、もはや平穏な日常に心満たされることのない彼らの存在の不安定さには、単調な日常からの逃避願望とはまた違った何かがあるように思われる。そしてこれらの情熱に駆り立てられた彼らの旅の帰結のシリアスさ―いずれの旅もこの世の次元を踏み出さずには終わらない―を考えると、この旅への憧れは、ある種の究極への旅、もはや "there and back again" は不可能な、トールキンの用語を借りればきわめて perilous でもある、この世の次元を超えた絶対の美と彼岸への到達の憧れをそもそもの始めから内に孕んでいるような性質のものだったように思われてならない。

(つづく)

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)