LotR のラストシーン(その三)

前置きが長くなってしまったが、ラストシーンにそんな漠然とした疑問を個人的に抱いていたので、Sauron Defeated に収録されたLOTRのラストシーンの執筆過程-初期稿から始まって、最終的にカットされた「幻のエピローグ」の再録-は多大な興味を持って読んだ。
幻のエピローグの内容に関してはカーペンターの伝記にすでにその一端が報告されているのでそれを引用させてもらうと、

「…ずっと前からトールキンは結末で主な主人公たちを、海を越えて”西方”へ旅立たせることに決めていた。そして灰色港からの船出を叙述する章の執筆をもって、この厖大な原稿はほぼ完成した。ほぼであって完全ではない。『きちんとしめくくりがつけられているのがいい』とかつて語ったことのあるトールキンは、自分の偉大な物語の結末がきちんとしていることを確かめたかったのであった。それゆえ彼は、エピローグを書き、サム・ギャムジーをして、西へ船出しなかった主要人物たちの一人一人に何が起こったかを自分の子供たちに語らせたのであった。エピローグはサムが『中つ国の岸べに寄せる海のため息とつぶやき』に耳を傾けるところで終わる。」(「或る伝記」評論社刊・菅原啓州訳p240)

さてじっさいにエピローグを読んでみると、カーペンターの説明通り、現在追補編に収録されている旅の仲間たちのその後について、サムが子供たちに語るという内容なのだが、興味深いのは「赤表紙本に書かれた長大なお話を子供たちに読み聞かせ終わった」サムが、エラノールを筆頭とする子供たちの質問に答える形で説明するという形式をとっていたこと(口頭で直截語るバージョンと、子供達の質問をQ&Aの形式にまとめ、赤表紙本に書き記すバージョンと二種類ある)。そして近日中に王様がブランディーワイン橋までやってくる予定であり、サムと子供たちに王様が謁見を求めている手紙が紹介される。(この「王様書簡」は達筆のテングワール文字で揮毫(?)された逸品で、そのまま掛け軸にでもして床の間に飾りたいようなものである。三パターンあるうちの第二ヴァージョンが「図像世界」にも掲載された。)

このエピローグは物語を子供に語りきかせる父親=トールキン像とも重なり、なかなか微笑ましいのだが、ラストシーンについて前回からのような疑問を持っていた私の興味をひいたのは、この幻のエピローグの内容よりも、トールキンが灰色港のシーンを書いたとき、このエピローグに直結することを始めから想定していたということだった(注1)。

このエピローグが想定されていた以上、フロド去りし後の物語を引き継ぐ者としてのサム、赤表紙本の残りのページを書く任務を与えられたサムにスポットが当てられ、彼が灰色港から帰宅するシーンがあるのはこの「後日談への繋ぎ」として素直に理解できるのではないか。とすれば、サムの帰宅シーンは、前回に書いたような作者のテーマに由来する理由から書かれたというよりは、コトはもっと単純で、エピローグへ繋がる自然な流れとして書かれた一エピソードに過ぎなかったのではないだろうか。しかし、最終的にエピローグが丸々カットされたことで、サムの帰宅シーンはある意味宙に浮いてしまったということはないだろうか?

(つづく)

(注1)クリストファーの注釈によれば、初期稿の段階からすでに、トールキンは灰色港のシーンから、サムの帰宅、そしてこのエピローグの導入まで、特に明確な区切りをつけずに、一気に書いていたらしいことがわかる。

Sauron Defeated: The End of the Third Age: The History of the Lord of the Rings, part four (History of Middle-earth)

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Sauron Defeated (The History of Middle-earth)

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