LotR のラストシーン(その二)

しかしラストシーンに私のような感想を抱く人はどうやらあまりいないようで、逆に
あのサムの帰宅シーンと「帰っただよ」の台詞があってこその「指輪物語」であるというふうに考える方が大多数のようだった。
特にあらためてリサーチしたわけではないので、たまたま私の目に触れたものでしかないのだが、サムの帰宅が物語のラストの「絵」として必要だという考えをおおまかにまとめてみると大体次のようなものになるようだ。

一、フロドが西方世界を見たビジョンで物語が終わってしまったら、読者もまた「行った(逝った?)きり」になんてしまい、物語世界から現実へ再び復帰しにくくなる。ファンタジーは現実からの逃避であり、癒しや慰めの効能を説いたトールキンではあるが、さすがに逝ったきりではまずいだろう。サムが自分の家へ帰宅することは、読者もまた日常へ帰宅することの布石であり、サムの深いため息とともに読者もまた平凡な日常世界へと帰還することができるのである…。

二、物語の中心人物とは言えないが、サムはフロドと同等の重要性はあり、フロドの聖人性、どことなく浮世離れしたフロドの気質(独身、エルフ文化への傾倒、Wanderlust 等)に対比する形で、サムの土着性(家族愛、土や草木への親和)、素朴な人間の素朴な生の謳歌というものが対比されており、彼岸的世界へ去っていったフロドではなく、娘と妻の待つ家へ帰宅するサムで物語が終わることで、トールキンは後者を強調したかったのである…。

三、実は真の主人公はサム。トールキンも書簡集でそれに近いことを書いていた。だから物語がサムで終わるのは必然。

三については一先ず置いておいて、一、二はいずれも説得力のある解釈であり、私もそれらに特に異存はないのだが、ただこういった解釈は一種の後知恵といった印象は拭えず、私が考えたようにラストシーンがフロドのビジョンでもし終わっていたとしたら、それでもなおサムの帰宅シーンがこの物語に必要であると力説する人はあまりいないのではないかしらん。意地悪く考えれば、すでにサムの帰宅が書かれている以上、それをなんとか意味のあるものに説明しようとする一種のこじつけめいた印象がないとは言えないように思えた。

(つづく)