「物語について」

「何度も読みかえすかどうかということ、それはもちろん、どの本の、どの読者にとっても、よい試金石です。文学的ならざる読者とは、本をたった一度しか読まない人間と定義してもいいでしょう(※1)。マロリーやボズウェル、トリストラム・シャンディやシェイクスピアソネットを一度も読んだことのない人間には望みがあります。けれども「もう読んだ」といってすましている人間、つまり一度だけ読んで、能事おわれりとしている人間はどうしようもないではありませんか。(中略)
もしも大衆的なロマンスの読者が―彼自身がいかに無教養であろうとも、また本そのものがどんなに下らなかろうと―昔からの気に入りの本を何度も読みかえすとすれば、それはその本が彼にとって一種の詩であるという、かなりはっきりした証拠になるわけです。」 (C・Sルイス『別世界より』〜「物語について」p35中村妙子訳)


たしかに「次はどうなるんだろう、主人公の運命やいかに?」という引きで、ぐいぐいと読者に先を促していく物語はそれだけでも出来のよい物語であるだろうが、先の展開がわかってしまったら、もう二度と読み直さない本というのも確かにあって、先の展開がわかっているにもかかわらず、何度も読みかえしたくなるお話には、ルイスのいう「一種の詩」、そのえもいわれぬ感覚を何度でも味わいたくなる、というのは愛読書を持っている人間なら誰でも身に覚えのあることだろう。そういう感覚がいつも「詩」とか「詩情」と云えるものかどうか、人によっていろいろな言い表し方があると思うけれども、そこにはストーリーの先がわかっていても、何度もくり返し味わいたい「あの感じ」というものが確かにあるはずだ。

(しかし、何かに「一種の詩」を見出すということは、本というメディアだけではなく、あらゆる芸術に、もっといえば、スポーツや趣味なども含めた、人を惹きつける営みすべての「行間」に潜在しているものかもしれない。)

「いやしくも物語であれば、一連の出来事を記述しなければならないでしょう。しかし、この出来事の連続―いわゆる筋―は、じつは何か他のものをそれによって捉える網に過ぎないのです。真の主題は通常、その中に何の関連もないもの、つまり単なる過程以上のもの、というより、ある状態、もしくは性質といったものであるともいえます。たいていはそのようです。(たとえばおとぎ話やSF小説などで経験されるような)巨人らしさ、人間と質の異なるものの感じ、漠たる空間の印象といったものが私たちの行く手をおりにふれて横ぎるのです。」 (前掲書p37)


しかし物語とは、読者を先に引っ張っていくためだけの馬の鼻先にぶら下がった人参の役割以上の価値、たまさかにふと鼻先をよぎる詩情を捉えるための網に過ぎないのだろうか。たとえばトールキンのいわゆるユーカタストロフィが顕現する瞬間が訪れるためには、そこに至るまでの「一連の出来事の記述」があってこそのカタルシスではないだろうか。

ルイスの物語論はストーリーから垂直方向に瞬間的に屹立する詩学であって、そこには物語の持つドラマ性の感覚が欠けているように思う。たとえば「ナルニア」を読んでいて、世界の果ての海、チャーンの都の終末後の世界、あるいは北方の荒地で巨人たちが人間には目もくれず、石を投げているグロテスクな光景―これらのエピソードは一度読んだら脳裏に焼きつくような鮮烈なイメージではあるが、必ずしもドラマ的必然性のあるエピソードとはいえないものがけっこうある。そこには「巨人らしさ、人間と質の異なるものの感じ、漠たる空間の印象といったものが私たちの行く手をおりにふれて横切る」ものの、エピソード同士の繋がりはさほど緊密ではなく、物語の中の一つ一つのエピソードが、必ずしもストーリーの展開に寄与していないというような。そういう特徴の背景には、こういったルイスの物語観がいくらか関係していたのかもしれない。

瞬間の詩学の「喜び」の中に「永遠」へ道標を捉えようとしたルイスと、歴史というものが一つの交響曲であり、出来事の一連の経過というドラマの中に顕現する「喜び」を見出すトールキン。この感性の違いが、「ナルニア」と「LotR」の魅力の違いとなっても現れているような気がする。

※1 とはいうものの、トールキンは一度読んだ本を読み返すということはめったになかったと手紙で語っている。それに比べルイスははるかに読書欲旺盛で、好きな本は何度でもくり返し読んでいる様子がアーサー・グリーヴズ書簡などから伺える。

別世界にて―エッセー・物語・手紙

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