ポランスキーの「マクベス」を見る

Macbeth [DVD]

Macbeth [DVD]

トールキンシェイクスピア」の本を読む前に、少しシェイクスピアについて予習をしておこうと思い、とりあえずポランスキー監督の「マクベス」を見た。まだ邦版が出ていない(あるいは出そうもない)DVDを輸入して買うことをおぼえてから、ファンであるポランスキー監督の作品も輸入版で買い集めていたのだが、「マクベス」は英語字幕を出してもシェイクスピアの英語の難解さにまったく歯が立たずに早々と退散し、そのうち翻訳で読んだ後にでも見直そうと思って放置してあったものだ。今回は翻訳の文庫を手元に置きながら、字幕を見ても意味がわからないときはいちいち画面を止めて、該当箇所の日本語訳を探して読むという、非常にめんどくさいやり方をしながら、なんとか最後まで見ることができた。(しかしこのやり方では一日30分も見たらどっと疲れてしまい、結局三回に分けて鑑賞した)。

正直なところ、ほとんどの台詞を訳文でいちいち参照しないと前に進めず、映画に浸るよりも、字幕と訳文を見比べる作業に終始した感もあるが、とりあえず沙翁の原文がいかに現代英語と違うかもわかったし、原文と訳文を参照することで、いくつかの発見もあったのでそれを書いてみようと思う。(以下、100%ネタバレなので、マクベスのストーリーをご存知ない方、ポランスキーの映画の内容を知りたくない方はご注意ください。)


もともとポランスキーの「マクベス」はかれこれ20年以上も前、テレビで深夜放映されたときに一度見ており、細かい内容はほとんど忘れていたものの、けっこう面白く見た記憶だけはあったのだが、今回はDVDのシャープな映像かつワイド画面ということもあり、広い画角で捉えられたスコットランドの、荒涼とした風景にまず目が釘付けになった。風見が丘周辺の曠野はこんな雰囲気だったのではないかなどと思ったりもする。イギリスでロケされた映画を観るたびに思うのは、PJ映画でロケ地になったニュージーランドの自然も雄大ではあったが、いかんせんトールキンが云うところの
the tone and quality that I desired, somewhat cool and clear, be redolent of our 'air'
(the clime and soil of the North West, meaning Britain and the hither parts of Europe
という情緒に欠けるものがあり、その点、この映画は全編スコットランドで撮影が行われていて、北方的土地の持つ詩情(まあこの映画の場合、ほとんど陰鬱さなのだが)があますところなくフィルムに映し出されており堪能した。





一瞬、ミナスティリスか?と思わせるような景色だが、これがマクベスの城.。バーナムの森が動き出して押し寄せるのはマクベススコットランド王になって、もっと大きな城に移ってからになる。



フランチェスカ・アニス演じるLady Macbethも美しい。デビッド・リンチの「砂の惑星」でLady Jessica(カイルの母親)を演じていたといえば、あぁと思う人も多いのではないだろうか。手に付いた血の汚れが落ちない・・という狂気に陥る有名なシーンでは、いきなり全裸で登場という不意打ちを喰らわせ、衝撃を与えてくれます。

偶然だがこの映画でバンクォーを演じているのは、私もCDを持っている「シルマリル」全文の朗読をしたマーティン・ショーで、この映画を観てどんな顔をした役者さんなのかがわかるという余禄もあった。(DVDのパッケージで王様の格好をしているのはマクベスではなく、マーティン・ショーでした。)そういえばLotRの全文朗読をしたロブ・イングルスという人もシェイクスピア役者だそうだが、この映画を観た後、他のシェイクスピア映画について調べていたら、PJ映画に出演している役者のうち、イアン・マッケッランがTV映画のマクベス役もやっており、イアン・ホルムはBBCのラジオドラマでフロド役をやったことからの抜擢だと思うが、「リア王」の主役をはじめ、シェイクスピア劇では常連のようで、まあイギリスの中堅以上の役者はみなシェイクスピアの舞台や映画に関係があるということもあるだろうが、こういうところにも束翁と沙翁との相性の良さみたいなものがあらわれているのかもしれない。

映画の演出は、邪悪なものを描くときのポランスキーの腕の冴えが随所に発揮されており、魔女の三姉妹のグロテスクさをはじめ、殺戮シーンの血腥さは今見ても衝撃的で、血みどろホラー映画好きにもお奨めできるようなものだが、シャロン・テート事件後に初めて撮られた作品だっただけに、当時の観客はかなり引いたのではないだろうか。撮影中、ポランスキーは「シャロンの時はこんなもんじゃなかった」と呟いていたという逸話もあり、この作品で血腥いシーンを強迫反復的に描くことで、ポランスキーはテート事件の悪魔祓いをしているのではと云う批評家もいる。(しかし「マクベス」の上演は呪われた歴史をもっているそうで、初演のさいにはマクベス夫人を演じた少年が楽屋で死んだり、その後も上演関係者に不幸が続き、「名を言うを憚る芝居」として役者から恐れられてきたのだという。)


惨殺されたバンクォーの亡霊が出現するシーンや、バラバラに切断された王の従者達、飛び降り自殺したマクベス夫人の体の奇妙な捩くれ方など、死体の描き方にもポランスキー一流のこだわりが感じられるが(「ナインスゲート」や「戦場のピアニスト」で車椅子に座った人物にたいする邪悪な扱い方にも似たブラックさがありますね)、いくつもの鏡を通り抜けながら、王位後継者に己れの子孫がいないことを思い知らされる幻想シーンも圧巻。

しかし、とりわけ印象的だったのは、マクベスの首が斬りおとされた後、裏切り者の逆賊の首に向って、罵りつば吐く群集の顔を捉えたカットで、ここでカメラは「生首となったマクベスの目線」で群集を捉え、あたかもマクベスの首がまだ死にきれないまま、死の恐怖と屈辱を味わっているかのように描写されており、見ているこちらまで不条理な悪夢に突き落とされる強烈なショットだった。ポランスキーの残酷描写は、他者に向うサディズムというより、ほとんど神経症的な被害妄想と一体になった根源的な他者恐怖に根ざしているようで、こういう群集に対する恐怖は、「反撥」「ローズマリーの赤ちゃん」「テナント」など、一連の隣人恐怖ホラーでポランスキーが追求してきたテーマでもあり、マクベスという題材を扱いながらも、しっかりそういう恐怖が描かれているところが、やはり作家性というものなのだろう。

と、映画全般の感想をつらつら書いているだけで長くなってしまい、台詞に関する話は次回にまた。