異境の気配をうたう歌 『八本脚の蝶』二階堂奥歯

弱冠26歳で自らの命を断った編集者の女性が亡くなる直前まで日々の思いを綴った「八本脚の蝶」というウェブサイトをご存知だろうか。そのサイトの日記が生前の彼女を知る人たちの回想を綴った文章と共にこのほど出版された。(『八本脚の蝶』二階堂奥歯 ポプラ社

自らの死をネット上の公開日記で告知するということの是非については多くの意見があると思うけれども、そういった衝撃性を抜きにして、私はこの人の文章のファンであり、活字になった彼女の文章を今回改めて読み直して、幻想文学やファンタジーを読むということの意味、とりわけ非現実世界の描写を通して、この現実世界自体をある特殊な光線で照らし直すという側面について考えさせられるものがあった。たとえば以下のような部分。

「遠くを見ている歌が読みたいのです。
(遠くを見ているポーズを惰性で取って詠んだ歌ではなく、センチメンタリズムに流された歌でもなく)。
ただ一度だけ垣間みてしまった何かを詠んだ歌。

一筋の光によってラピュタのありかを指し示す小さな飛行石のように、読み手の手のひらの中から遙か遠いここではないどこかを指し示してくれる歌。
31文字で精緻に組み立てられた小さな鍵。おそらくその示す先は楽園ではないのです。身を切るような異質さに震えながら、表面温度を下げた私の皮膚が金属の光を宿すようなそんな歌。

そして、そんなどこかを感じ取った後で振り返ったとき、この世界もまた漂わせているはずの異境の気配をうたう歌。一度限りの世界に滞在している居心地の悪さと幸福感。不安、おそろしさ。美しさ。

頭の中や携帯のモニターの中に、肌身離さず持って歩けるような小さな言葉のひとまとまりを探しています。」

「この世界もまた漂わせているはずの異境の気配をうたう歌」を自分も探しており、そういう歌声をルイスやトールキンの作品の中に聴き取った気がしたゆえに、私はこれらの作家に惹かれたのではなかったか。

しかし「おそらくその示す先は楽園ではないのです」という言葉があらわすように、彼女は「信仰」というものの中への逃避を自らに許さず、この世界という異境の中で「身を切るような異質さに震えながら、表面温度を下げた私の皮膚が金属の光を宿す」ことを目指し、力尽きた。とかくロマン主義的なものに惹かれ、ずぶずぶのセンチメンタリズムに流されがちな私は、<存在>の荒野の中で寒さに耐えながら金属の光を宿す皮膚を求めて儚く散っていった若い精神を思うと深く首をうな垂れるしかない。

2002年10月31日の日記から。

「そうか、それでわかりました。
あなたは児童文学を読んでいた子供だったんですね。
だから信じるんだ。

児童文学を読んでいた子供は信じています。何かを。
世界には恐怖や危険や悪や絶望があるけれども、大切なもの、愛おしいもの、美しいもの、かけがえのないものが必ずあるということを。
その大切なものを、勇気や知恵や友情や愛で守ろうと決心したことがきっとあるはずです。」

ちなみに彼女のお気に入りのファンタジーは「九年目の魔法」「グリーン・ノウ」「ふくろう模様の皿」「見えない都市」「鏡の中の鏡」「最後のユニコーン」「サロメ」「ナルニア」「幻獣の書」だとのこと。トールキンにたいして彼女がどんな意見を持っていたのかも読んでみたかった。

トールキンに関して触れている文章が一つあったのを思い出した。以下、その部分の引用。
「そういえば私の先代の図書委員長はSF研の部長で、ファンタジーが好きな人でした。トールキン好きで瞳が美しい人でした。(近眼だし)。彼女はSF研の見学に行った初対面の私に対し上品に微笑みながらいきなりエルフ語で自分の名前を書いてくれたのでした。・・・」

深読みすれば、トールキンファンの先輩の瞳が美しかったというこの逸話に彼女なりの批評が含まれている気がしないでもない。)

八本脚の蝶

八本脚の蝶